生命が死に絶えた地―――アネクメネビュート。
嘗てこの地に根付いた文明の都は、盲目の魔女が異界より齎した真紅の流砂に呑み込まれ一夜の内に滅び去ったと史実には記されている。 一説では、魔女に穿たれた異界の歪は今もアネクメネビュートの何処かに存在し、呪われた流砂を吐き出し続けているらしい。 もっとも、現在進行形で拡大する砂漠化による土壌侵食との因果関係は定かではない。 しかし、均衡を失った自然体系が南西大陸一帯を死の大地へと変貌させたことは紛れもない事実であった。
そして、この呪われた地に悠久の時を刻む古き城砦にも、ひとつの影が堕ちようとしている。
「アーネル…我が娘よ……そ、こにおる…のか?」
豪奢な肘掛け椅子に深く腰を落とした白髪白髭の老屍族が、喉奥から絞り出すように愛娘の名を発した。
「はい」
真紅の絨毯に片膝を預けたままアネールは面を上げる。 燃えるような赤髪に少しつり上がった目元が特徴的な屍族の娘であった。 人族に外見換算すれば、歳の頃十七・八に相当するだろう。
「ここへ…」
老父の意に従い距離を詰めるアーネル。 同時に肘掛け椅子の傍らにあった二つの影が音も無く後方へと退く。 右に痩身だが整った体躯の壮齢の男性。 左に長い黒髪を螺旋金環で結いあげた妖精的な美貌を宿した妙齢の女性。 この老屍族に永遠の忠誠と隷属を誓った屍血姫の両者であった。
「私はここにおります」
屍血姫の配慮に感謝の念を抱きつつ、アーネルは老父の膝元に淑やかに手指を添える。
「我の…命……もはや、幾許もない…」
衣擦れした紅衣の袖口から骨ばった指先が伸ばされる。 それは痙攣を繰り返しながら愛娘の頬に接触した。
「お父様…」
見上げるアーネルの紫水晶の双眼に痩せ細った老父の姿が映りこむ。 眼窩の底に沈んだ紅眼、肩下まで流れた頭髪は全て白髪と化している。 嘗て“紅の屍神”とまで畏怖された大屍族フルカス・バルズールの名を確信せしめる身体的特徴は全て失われていた。
フルカスは齢三千歳に至る老齢の屍族である。 しかし、彼の命を蝕んでいるのは生理的寿命といった安直なものではない。
血壊―――それは屍族固有の死病であった。 この悪疾は近親婚を繰り返し、血脈の純血性を尊ぶ大屍族にほど発症率が高い。 その名の通り血液が崩壊する病で、性染色体の変異により引き起こされる遺伝病でもある。 初期症状は血液中の血小板が破壊されて凝固異常が起きる。 それが中期に差し掛かると深部出血が引起され、大部分の発症者は頭蓋内での出血により、重症化し死を迎える。 だが、この段階で死ねた者は幸せな部類に属している。 最終段階に達すると、身体の穴という穴から血液を噴き出し壮絶な死期を迎える事になるからである。 罹患後の進行速度も極めて速く、高い恒常性機能を持つ屍族ですら半年を待たず絶命すると謂われている。 発症から一年余りの時を生き永らえたフルカスの生命力こそ驚嘆の域にあった。
「アーネル…お前は、血族の…掟に従い……受け継がねば……」
途切れ途切れに紡がれるフルカスの意志。 そのひとつひとつが、降り積もる雪のようにアーネルの心裡に蓄積されていく。
バルズール家の血統アルカナ“戦車”は、力を持って力を制することを旨とする苛烈なる夜の意志だ。 彼の力は現継承者を弑することで、代々受け継がれてきた。 死期を悟ったフルカスは愛娘に自分を殺せと命じているのだった。
「我がそうしたように…お前も……ね…ばならない」
死の淵に瀕したフルカスの紅眼が、強い意志の輝きを燈す。 それは燃え尽きる寸前の蝋燭の燐光を思わせた。
「さらばだ…アーネル……」
フルカスは咳き込みながら言い終えると、ゆっくりと双眸を閉じ“その時”が来るのを待つ。
「はい、お父様」
玲瓏たる所作で右腕を前方へと突きだすアーネル。
フルカスの両眼が見開かれ、肉の引きちぎれる嫌な音が周囲に響く。 アーネルの指先が肋骨の浮きでた胸板を貫き、老父の心臓へと到達する。 その血塗られた所作からは一分の戸惑いも躊躇いも感じられない。
「すまぬ…な…お前…にばかり―――」
室内に備え付けられた篝火の炎が大きく揺れる。 薄闇に陰っていたアーネルの横顔が一瞬照らしだされた。 しかし、視力の大半を失っていたフルカスに、愛娘の表情を伺い知る術はなかった。
「お父様が気に病むことはなにもありません。 これは変える事も変わらぬ事も望まなかった私の咎」
アーネルは臆することなく与えられる全てを受け止めていた。 それがバルズール家の血脈に連なる彼女自身の矜持であった。
フルカスの青ざめた白い肌が氷のように冷たい躯へと変貌していく。 突き入れた腕から伝わる生命の鼓動が急速に薄れ途切れる寸前、
「お別れです」
アーネルは滅び逝く老父に覆い被さるように身体を預けると、冷たく輝く紅玉の額冠に訣別の接吻をする。
――――ドクンッ
アーネルの心臓が大きく跳ねた。
右腕から白い肌を刺し貫くような冷たい熱が伝わってくる。
――――ドクンッ
『我は古より連なりし力の奔流……』
まるで意識の深層から語りかけてくるような声がアーネルの頭蓋内に反響する。 そこに含まれる圧倒的な威圧感がアーネルの背筋を震撼させていた。
『我は戦を司りし双炎の闇……』
刹那―――フルカス・バルズールの亡骸を蒼黒と紅黒、ふたつの炎が包み込む。
「くっ」
苦悶の喘ぎを吐きつつアーネルが背後へと飛び退く。 外傷はなかったが、冷熱に晒された右肘から先の感覚が完全に消失していた。
「お嬢様、御気をつけあそばせるよう。 その者、血統アルカナ“戦車”の屍霊にございます。 若き日のフルカスさまでさえ、手懐けるのに三日三晩の時を要しました」
首筋に触れた硬質な感触にアーネルの双眼が見開かれる。 厄介な事実と共に、肩越しに差し出された一刀。 それはフルカス・バルズールの三佩刀が一振り、天炎・地焔と並ぶ上古刀、喰骨黒炎であった。 黒漆塗の鞘に収められた大刀を受け取ると、背後に視線を走らせて口元を緩めるアーネル。 主人の滅びは呪約を結んだ屍血姫たちの死滅をも意味する。 フルカスの愛刀をアーネルに託すことは、弔いの意味もあったのだろう。
「感謝します」
アーネルは乱れた呼気を散らすようにゆっくりと息を吐き前方を凝視する。 うねり狂う炎柱の内部に巨大な影が陽炎の如く揺らいでいた。
『汝が我を求める者か?』
空気を震わす轟音と共にそれは現出した。 悠然と佇む屍霊を宿した巨躯は、頭部に三つの複眼を宿した全身甲冑で身を固め、胴体の左右に備えた両腕には双炎を宿した長大な戦杖が其々構えられている。 そして、その全てが壮麗な黄金色で統一されていた。
「そのようですね」
アーネルの肯定を耳を劈く地響きが呑み込む。
真上から振り下ろされた屍霊甲冑の一振りが、アーネルの足元に大穴を穿っていた。
『我が壊打を受けて刃毀れひとつおこさぬとは、流石は喰骨黒炎』
屍霊甲冑の複眼がアーネルの掌中から伸びる業物を見やり一言。 知らぬ間に、冷たい輝きを放つ黒鋼の刀身は黒漆塗の鞘から抜き放たれていた。
『否、其方の並外れた抜刀術と膂力にこそ敬意を表すべきか』
次いでの賞賛は屍霊甲冑の渾身の一撃を、神速の居合術をもって弾き落としたアーネルへと向けられる。
「必要とあらば何度でもそうするまで」
アーネルは喰骨黒炎を再度納刀すると、右膝を落とす。 左の手指は右に携えた柄を回り込むように鍔に添えられている。
『笑止、あの程度の一撃を受け流した程度で調子に乗られては困る』
「御託は必要ありません」
凛として言い放つアーネル。 その心には一片の淀みも感じられない。
『ならば、その身を以って知るがよい。 純然なる力の前では汝ら肉に束縛されし剣技など児戯にも等しきことを』
語尾を呑み込むように唸りをたてて振り落とされる戦杖。 それを抜刀した喰骨黒炎で逆袈裟に斬り上げるアーネル。 戦杖の纏った蒼黒の焔が散り、弾き返された勢いに圧された屍霊甲冑の巨躯が揺らぐ。
「終わりです」
がら空きの胴体に返す刀で喰骨黒炎を真向に斬り下げるアーネル。
鋼の雄たけびが生じ、雌雄は呆気なく決したかに思われた。 しかし、驚愕に目を見開き数歩後退ったのはアーネルであった。 屍霊甲冑の黄金の装甲は、彼女の全体重を乗せた斬撃を受けて傷ひとつない。 その事実はこの死闘の均衡を奪う。
『なにが終わったのかな?』
打撃の豪雨がアーネルを襲う。 それらを辛うじて弾き返すアーネル。
『先程の勢いはどうした? 剣速が鈍っておるぞ』
屍霊甲冑の示唆する通り、アーネルの剣速は徐々に失われていた。 居合術の基本は抜刀時の鞘走りをして剣速を加速する一撃必殺の剣技である。 斬撃の応酬を繰り返せば、その真価が損なわれるは必然であった。
だが、実際はそれだけではない。
「(これは……)」
アーネルは異質な感覚に陥っていた。
一合、二合と屍霊甲冑と打ち合う度に、喰骨黒炎の刀身に蒼黒の焔が絡まりつく。 それは次第に剣筋の制御を妨げ、鉛の塊を振り回しているかのような錯覚を引き起こしていた。
『我が双炎は魂を喰らう。 嘗て滅ぼした屍族の怨霊がこの蒼黒の焔には宿っているのだ。 そして、我が備える666の全ての器が満たされた時、彼らは永遠の縛鎖から解放される』
屍霊甲冑の頭部に穿たれた三つの複眼が怪しい輝きを放つ。
『其方は178個目の魂だ』
アーネルの頬から鮮血が噴出す。 序所にだが屍霊甲冑の戦杖がアーネルの身体を捉えだしていた。
「(薄傷とはいえ……このままでは血が足りなくなる)」
頭部を掠めた打撃に真紅の霧が舞い、アーネルの視界が一瞬だが塞がる。 その間隙を縫った屍霊甲冑の横薙ぎの一撃がアーネルの脇腹を抉る。
「…っ」
壁際まで弾き飛ばされたアーネルが声も無くその場に崩折れる。
『存外に楽しめたが、所詮はこの程度か』
「いいえ……まだです」
全身を血に染めたアーネルが片膝をついて起き上がる。
不幸中の幸いか、口腔に滲む鉄の味に触発された屍族の恒常機能が、意識の喪失を妨げていた。
『ほう、流石はフルカスの娘といったところか』
歩み寄る屍霊甲冑を迎え討つように重心を下げるアーネル。 それは抜刀の姿勢であった。
『其方お得意の居合術には、その単調さ故の致命的な欠点がある。 それを命の代価として教えて進ぜよう』
無造作に両者の間合いが接触する。
アーネルの抜刀に合わせ、屍霊甲冑の戦杖が正面から突き込まれた。 膂力に数段勝る相手が力を一点集束させた打突である。 その軌道を変えることは不可能に近い。 さりとて、躱わせば動作に淀みが生じる。 それはそういう部類の攻撃であった。
「(死を恐れてはいない……)」
次の瞬間、アーネルの左胸から血飛沫が舞い上がり喰骨黒炎が空を斬る。
だが、それに驚愕の声をあげたのは屍霊甲冑であった。 腕に伝わる肉を貫く感触が不意に消失したのだ。
「抜刀術とは最速最短の直線運動で標的を仕留める剣技」
アーネルは戦杖の圧力に逆らうことなく身体を旋回させると、更なる一歩を踏み込む。
「そして、その真髄は死中に活を求める一太刀にこそあります」
相手の打突の力を相乗した渾身の斬撃が屍霊甲冑の装甲に吸い込まれる。 それは、防御に関する一切の動作を放棄した捨て身の血路だった。
薄闇に幽鬼のように浮かぶ複眼の輝きから闘争の意志が消える。
『見事だ』
屍霊甲冑の腹部装甲に銀色の刀線が浮きあがる。 それは瞬く間に全方位へと走り、成人の頭ほどの大穴を穿つ。
『まさか、刀撃のみで我が装甲を砕く者がおろうとは思わなんだ』
如何にも感慨深げに砕かれた胸部装甲を見下ろす屍霊甲冑。 崩れた去った鎧の下には、本来在るべき肉体の類はなく、ただ黒々とした虚ろな空間が広がっている。
「アナタを斃す術を新たに見出さねばならなくなったようです」
アーネルの両眼が細められる。 血統アルカナの屍霊は、その名が示す通り魂だけの存在とされていた。 アーネルも物理的な攻撃が通じないことは粗方予想していたが、こうしてはっきりと現実を突き付けられては、対策を怠った己の不備を悔やまざるを得ない。
「(屍霊術の鍛錬もしておくべきでしたね……)」
感覚を失った右腕ばかりか、屍霊甲冑の打突で砕かれた左鎖骨から胸骨にかけての損傷が酷い。 今のアーネルには刀を振るうことさえ困難であった。 恐らく深層圏を統べる高位の術式ならば、この屍霊甲冑とも互角以上に渡り合える筈である。 もっとも先天的に屍霊術の才が乏しかったアーネルには端から無理な話ではある。
『その必要はない』
アーネルの心中を読取ったのか、否定の意志を提示する屍霊甲冑。
「戦わなくていいのですか?」
『既に試練は完遂された。 其方は古の超金属である日比金の装甲に傷をつける程の使い手。 我が継承者として申し分ない』
屍霊甲冑の個眼のひとつひとつが物憂げに佇むアーネルを見据える。 血染めのドレスに血刀を携えたアーネルの姿は、夜を塗上げた彫刻のように、妖艶で退廃的な美を醸しだしていた。
「ならば、アナタには死に損ねた責任をとって貰わねばなりません」
前置きもなにもない唐突な言葉。 それがアーネルの口唇から放たれたと理解するまで、幾許かの時間を要する屍霊甲冑。
『なにを言っておる?』
そして、真意を掴み損ねて尋ね返す。
「もの好きな屍霊が私を生かしてしまったからです」
それはまるで生き残ったことに対する不満をぶつけるような言い草であった。 アーネルは感覚を失った状態の右腕を頭上に掲げると、
「片腕には片炎ですか?」
アーネルの示唆は、戦いの最中、屍霊甲冑が双炎の片割れである紅黒炎の力を用いなかったことに向けられる。
『我が試練は、其方の自殺願望を満たす為にあるものではない。 滅びを望むなら、其方の意志で自害すればよかろう』
否定ではない返答。 それはアーネルの言葉に幾許かの真実が含まれていることを意味していた。
「託された意志。 死を許されない業を背負う故に、私は自身の意志で滅びるわけにはいかないのです。 バルズール家の屍族として恥ずることの無い最期を迎えねばなりません」
アーネルは抜身の喰骨黒炎に視線を落とすと、小さく呟く。
フルカス亡き今、アーネルはバルズール最期の血統である。 その血筋を己の手で絶やすことは、アーネルの気高き自尊心が許さなかった。 相応しき死に場所を得ること、それは生き続けることを命題とするが故の渇望であった。
『己が意志で死ねぬ故、背負う宿業の上で散りたいと? 随分と身勝手な話だ』
「その通りです。 ですが、利き腕を封じられたのは私の不覚。 そこに情けをかけるは武人として恥ずべき行為です」
甚だ譲るつもりは無いらしく明快に断言してのけるアーネル。 射抜くような視線が屍霊甲冑の複眼と交差する。
『言いおるわ。 しかし、我は別に其方を気遣ったわけではないぞ。 手負いの相手を叩きのめしたところで自慢にはならぬ故の判断だ』
憤慨するわけでもなく、自身の理を述べる屍霊甲冑。
「それでも同じことです。 アナタの落度で私は生き残ったのだから」
アーネルの双眸に哀切な翳が掠める。 そこには反論を許さぬ凄味のようなものが宿っていた。
『無益な問答だ。 勝者足る其方が、敗北を認めた我に何を望む?』
屍霊甲冑は、詭弁を弄することの無意味さを悟ったようだ。 目の前の屍族の娘は、死しても尚、己の主張を曲げそうになかったからである。
「これから先、私がバルズール家の屍族として相応しくないと判断した時、アナタの手で私を殺してください」
静謐な空気にアーネルの意志が溶ける。 その心から不純な感慨は既に消えていた。
『よかろう。 その言葉を受け入れ、其方を血統アルカナ“戦車”の継承者と定めよう。 我が真名はビルザ・ギス・エストーラ。 しかと見届けようではないか、其方がどのように生き、そして死すのかを』
「ありがとうございます」
ビルザ・ギス・エストーラの肯定にアーネルは双眼を伏せる。
『それで、これからどうするつもりなのだ?』
「この砦を出て、旅に出ようかと思います」
そこに意を決したという感は微塵もない。 アーネルは予めそうすることを思い定めていたのだろう。
『バルズール家を捨てるというのか?』
屍霊甲冑の意志に不審の色が混ざる。
「いいえ、寧ろその逆です。 私はバルズール家本来の役割を全うしようと考えています」
『何を考えておる?』
「ラインフェルデンの正統血統を継ぐ者を探そうと思います」
喰骨黒炎を納刀すると、淡々と言葉を紡ぐアーネル。
『彼の血脈は魔女の大禍により滅び去った。 今更それを探してなんとする?』
ラインフェルデン家は今から数千年前、アーネルの曽祖父の代にその血脈が途絶えたと伝えられている。 元々は二十二家と称される大屍族のなかでも三皇家に連なる栄誉ある家系であるのだが、盲目の魔女の災厄を招いた血族として、畏怖と忌諱の対象でもあった。
「バルズール家は代々“審判”の血統アルカナの継承血族ラインフェルデン家に傅いてきました。 私はただ、バルズールの血脈者としての在るべき姿で生きようと考えたまで」
逃れられぬ死地へと己を導くこと。 それは滅びこそ自らを象る断片の一つだと信じるアーネルの至純なる渇望であった。
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